見出しアイコン始まりは、1つの出会い。
いただいた大切なご縁。

 

私たちが農業を始めたきっかけ。それは、以前からのお取引先であり、後継者問題で農業継続思案されていた、とある花園さんからの、「自分のハウスを借りて誰か 農業をしてくれないだろうか」というご相談でした。各地の生産者にあたってみましたがなかなか引き受け手は見つからず、この時、当時山形県の6次産業ビジ ネススクールで農業を学んでいた社長の水沢は、決心します。
「ならば自分でやってみよう。これも何かのご縁だ」

初めに選んだ作物はトマトでした。誰にでも比較的簡単にできて加工品の種類が多いこと、そして、一番の理由は、水沢の息子がトマト嫌いだったこと。
「息子と同じようにトマト嫌いな子どもたちが、食べて笑顔になるトマトをつくりたい」
「山形の新鮮な農産物を山形の子どもたちに食べてもらいたい」
5棟のハウスからトマト栽培がスタートしました。

 

見出しアイコンひと握りの種(たね)に託された思いを
受け継ぎ、つなぐ。



トマトのハウス周辺には多くの耕作放棄地がありました。これらを何とかしたいとの思いもあり、毎年少しずつ農地をお借りし増やしていたのですが、ある日、私たちのお借りしている農地の一部が、もがみ紅花の再興に尽力された地主さんのものであるとわかりました。

山形県の特産であったもがみ紅花は、江戸時代後期を最盛期に、その後は輸入品・化学染料の普及で昭和初期には消滅の一途を辿り、危機に瀕したと言われています。しかし、伊勢神宮の遷宮の際に使用するもがみ紅花を継承するために、宮内庁の方々と私たちが農地をお借りしている地主さんをはじめ、地域の人たちの手により奇跡の復興を遂げます。

何かに導かれ、つながった1本の糸……。不思議なご縁に必然性を感じました。そして、改めて、地域の歴史とこれからの地域農業について思いを巡らせ、導かれてつながった1本の糸を次世代へとつないでいく使命感と、「日本文化の未来が詰まった、山形が誇るこの種子を守りたい」との思いを強くし、私たちの手でもがみ紅花の栽培をすることにしたのです。

紅花は、漢方では「こうか」と呼ばれ、古くから血液の流れを改善するなど、婦人病や打撲・外傷などに用いられてきた植物生薬ですが、古くからもがみ紅花の産地では、間引きした紅花の若菜をお浸しやサラダとして食してきました。シャキシャキした食感で西洋野菜のルッコラのような香りのほろ苦いこの紅花若菜も、調べてみれば、驚くほど栄養価が高いことがわかり ました。摘花だけでなく、若菜も多くの方々に美味しく食していただければ、もがみ紅花の未来が拓けます。

おいしくて、たのしくて、自然との調和と種(たね)の重要性を考えた農業。
あとから来る人たち、子どもたちのために、きょうも私たちは歩み続けます。

 

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